思い出したくない。しかし、このサイト「心臓病ごときに負けてたまるか」を作るためには、どうしてもここから話を始めなければならない。それは15年前、38歳の時であった。その病気が突然私を襲った。
(1988年2月27日、土曜日、心臓病では)
 その朝、女房殿と喫茶店で時間を過ごし、店を出ようと立ち上がった時、胸が急に詰まった感じがした。痛みがあるわけではなく息苦しいわけでもなかった。タバコの吸いすぎで、喉から気管支はいつも違和感があったので、これも大したことはないだろうと家に帰った。帰宅し、布団に入り安静にしていたが、動悸がなかなか治まらない状態が続き、不安感がどんどん大きくなっていった。ひょっとして心臓が悪いのではという直感があった。この時、救急車を呼び、病院に行けばその後の私の人生は大きく変わっていたかもしれない。残念なことにその時は、この歳で、心臓病になるとは、どうしても思えなかった。前年の暮れに人間ドックを受けて異常がなかったということもわざわいしていた。女房殿に救命がんを買ってきてもらい、その日は、安静にしてテレビを見ていた。そんな状態であったにもかかわらず私は相変わらずタバコを吸っていた。
(1988年2月28日、日曜日、休日急病診療所)
 翌日、少し熱があった。胸の違和感は依然として消えていない。女房殿に付き合ってもらい、西区の休日急病診療所に出かけた。胸の調子が悪いことを告げたが、運悪く心電図計が壊れていると言う。なんていう診療所だと腹立たしかった。その時対応してくれた女医はすまなさそうに「早く他の病院へ行ってください」と言った。ひとまず帰宅し、安静にしていた。その夜、今朝の女医から電話があった。どうしても症状が心配だから病院へ行けという内容だった。彼女なりに不安になったのだろう。彼女は心臓病であることを確信していたのかもしれない。私は、大きな不安感を抱いていたが、特に何もせず、そのまま眠った。
(1988年2月29日、月曜日、入院)
 週明けの月曜日、いつものように目が覚めると、胸の違和感は消えていた。しかし、熱が38度もあった。明日から徳島へ出張予定だったので、早く治さねばと職場の隣の病院にかかった。当日は風邪がはやっていることもありなかなか診察順が回ってこなかった。女房殿が心配してついてきてくれた。やっと診察順がきた。医師に症状を訴える。看護婦が心電図をとってくれた。その結果が打ち出された瞬間、看護婦の表情が変わった。看護婦が医師を呼びに行った。循環器の先生がやってきて、「心筋梗塞です。すぐ入院します」と告げた。奈落のそこに突き落とされた。晴天のへきれきであった。病室へ運ばれる途中、これで私の人生は終わったのだと涙が頬をつたった。
 既に、心筋梗塞を発症してから時間が経過し、下壁と後壁がダメージを受けていた。恐らく先の土曜日、自覚症状があった時に発症したのだろう。心不全が起こらないための治療をするという。安静が大切であるということで即日入院になった。後日談として女房殿が話してくれたが、主治医から「かなり危険な状態なので、覚悟もしといてください」と言われたという。
 絶対安静期間が2週間続き、リハビリが始まった。足の筋肉は完全に萎え、ベットサイドに立つこともできなかった。ベットサイドに立つ、ドアまで歩く、廊下を5メートル歩く.....階段をゆっくりと昇降する。リハビリは終わったが、精神的な打撃は全く回復していなかった。私の入院は40日にも及んだ。退院の1週間前、心カテを行うため安城の病院まで行くことになった。そのころは、名古屋市内であっても心カテはどこの病院でもできるというものではなかった。検査の結果、下壁と後壁がやられ、心臓機能がかなり落ちており、冠状動脈には複数ヶ所の狭窄があるということであった。その頃の私は、今もそうかもしれないが、詳細を知ることが怖くて、自分の状態を積極的に理解しよとしなかった。生活パターンを変え、ゆっくりのんびり、心臓にダメージを与えないようにするしか対策はなかった。
 自宅静養を1週間し、復職したが、いつも恐怖感が存在していた。息苦しくなると、再発かと、病院へ駆けつけれことが何度となくあった。幸い職場は検診機関で、隣が病院だったので、そういった精神状態でも仕事ができたのだろう。こうして、病気の恐怖感に打ち勝つための生活が始まった。