(平成15年5月27日、火曜日、手術の前日)
朝早く目が覚めた。緊張感からだろう。眠剤のお陰で眠りは深かったので疲れているという感じはあまりない。右手には名前の記入されたビニールテープが手錠のようにつけられている。手術時に患者を間違えないための措置である。今夜の9時以降は絶飲食になり下剤も飲まなければならない。明日は病棟を8時30分に出るという。もちろん手術室へだ。意識がなくなれば知ったことではないが、意識があるうちにはなにをされるんだろうという不安はある。どんな感じで意識をなくすんだろう。夢はみないのだろうか。麻酔が途中で覚めることはないだろうか。考えてもきりがないことだ。
手術前の入院生活は予想外に充実している。負け惜しみではない。小説(西村京太郎、和久俊三、内田康夫)を読み、参考書(ホームページビルダ)を読み、少しだけTVを見て、ラジオを聞く、やがて眠くなってウトウトする。これの繰り返しなのだがリズムは極めて緩やかである。このようなリズムでの生活スタイルから随分遠のいていた(手術への不安感と恐怖で生活リズムが乱れきっていた)ので、それだけでも嬉しい。非常に心地よいリズムである。無理やり何かに夢中になって手術から顔を背けたいと、かなりじたばたすると思ったが、気持は穏やかである。やるべきことはやらなくてはと、単純に吹っ切れている。これには自分自身も意外である。もっと格好悪くじたばたすると思っていただけに。
最後の一日という言葉がピッタリである。自分の命を人に委ねるからだ。今日中にこれをしたいしておきたいというものはない。せいぜい、看護師さんに隠れてかつサンドが食べたいと思っている程度である。今夜は家族が面会に来てくれるはずだ、最後のお別れになるかもしれないからだ(?)。家族は今回の手術を大変甘く見ている。死ぬ事なんかはあり得ないと思い込んでいる。利発な次女でさえ、手術の概要を知らないでいた。話してやると腰を抜かすほど驚いていた。無駄な取り越し苦労をするよりは良いのかもしれないが、もうチョッと緊迫感があってもと思うこともある。だが、私に気遣い敢えてそうしてくれているのかもしれない。きっとそうなんだ。
シャワーを浴びる時間になった。体中のばい菌を洗い流すのだ。イソジンガーグルをもらった。消毒薬ももらった。手術室の看護師が挨拶にくるという。手術中の注意事項を言いに来るのだろう。意識をなくしている私になにができるのだろう。手術室のY看護師が訪ねてきてくれた。手術に関する不安はないかという。手術中に目が覚めることはないのか、麻酔からはいつ覚めるのかと質問してみた。予想通りの回答ではあったが、患者サイドに立った実に分かりやすい説明であった。彼女は「全くしらない患者さんを手術するより、事前に話し合いの場を持ち、どんな患者さんを手術しているのだと思いながら手術させてもらってます。」と言った。この言葉で全ての不安が一蹴した。実にしっかりした病院である。明日は、オペ室のY看護師のところに行きさえすれば......やっとここまで来た。ふー...